熊野三山
 那智の滝、忘帰洞に代表される温泉、温暖な気候と海の幸
一般的な観光地としても人気な所。
 紀元前200年頃 秦の始皇帝の命により 不老長寿の薬草を求め、
蓬莱の島を求めて船出した当時の科学技術者一行『徐福』が 中国
連雲港を出航したのは、ほほ歴史的事実。
 もしこの徐福一行がこの熊野に着いていたら、ここは日本最初の
先進域であったろう。
 熊野本宮を本城として、那智・速玉を支城として外敵に備えた
ことは想像できる。
 神武東征にあたり、長脛彦に難波で破れ、新宮から奈良へ迂回
したと、記紀は伝えるが、この伝承にまつわる史跡が多い。
 熊野に祭られる主祭神は名称こそ ことなれ、基本的には
スサノオノミコト系である。
原田常次氏は、「神武はニギハヤヒに養子に入った」と推察
されているが。
 「蜂の熊野詣」として 多くの上皇、宮人が参詣に赴いた。
 伊勢神宮に参詣した天皇・上皇は明治時代以前は0人らしい
 、これは 何を意味するのか?

徐福公園
ここが謎 調査対象      参考文献
  なぜ、人は熊野に参詣するのか?  
  人々は熊野の神々に何を祈願したのだろうか?
  神武天皇が難波でナガスネヒコ軍に敗れた理由として、太陽神の
  子が 太陽に向って進軍したから」 と 訳のわからない理由で
  熊野から  奈良(大和)に進軍した とあるが 真の理由は
  何か?
  徐福の船団は500人から2000人程度まで諸説があるようだ。
  何十艘に分船したことだろうから、到着した場所も何ケ所かに
  なったことも十分ありえる。 笠沙の浜、出雲、熊野等に漂着し
  各地で  独立した文明圏が成立した。 後の世に合従離反を
  繰り返したのが 神武東征の実態なのだろうか?
  神武は熊野から紀伊山地をヤタ烏に導かれて、宇陀の地に
  軍を進めたという。ヤタガラスとはなにか?
  長良川の鵜匠は宮内庁の特別行政職だと言う。(団体手配の時
  岐阜グランドホテルから聞いたーまちがいないでしょう)
   ヤタガラスとは鵜ではないか?
  江南文化(鵜飼は中国の漁法のひとつ)を継ぐ、神武が山地を
  行軍する   食料補給のひとつとして熊野川にそって 軍を
  すすめた。 j神武の父は   ウガヤフキアエズ。 産屋が鵜の
  羽で葺きあがる前に」生まれた からの名前らしい。
      ヤッター!!
神倉山祭祀
遺跡
「徐福伝説を探る」
日中合同シンボジウム著

「徐福伝説の謎」
 三谷栞沙夫氏著

「長脛彦の謎」
木村武俊氏著

「長江文明の曙」
梅原 猛氏
厳 文明氏
樋口隆康氏
共著

花の窟神社
熊野本宮
大社
熊野速玉
大社
熊野那智大社
神倉神社
 ゴトビキ岩
宿泊地  旅館名 宿泊代金の目安 概要
勝浦温泉 中ノ島 13,000円   紺碧の海と輝く太陽いっぱいの信仰といで湯の地、南紀勝浦。美しい紀の松島に浮かぶ中ノ島は 釣りも
  楽しめる海の宿です。潮騒の聞こえる露天風呂で寛いだ後は、豪快に堪能できる「熊野水軍」料理など
  壮大なスケールで楽しめるリゾートホテルです。
湯の峰温泉 湯の峰荘
12,000円
  90度で湧き出る豊富な湯量の温泉は 掛け流しで一晩中入れる大浴場・露天風呂・貸切家族風呂とも
  「ほんまもん」の温泉。温泉ファンからは「関西一」の評価をもらっています。料理も素材重視。料金は手頃で
  お買い得感のある、気軽にごりよういただける宿となっています。
 参考日程   古代史表紙へ   問合せ、申込用紙へ   ケンツアーズ表紙へ(Top Page)